· 

第16回 和太鼓クラブ「響雅」の演奏

 堀川保育園の入り口に置かせて頂きました。当日は、卒園生の保護者の方たちも、演奏を聴きに来てくださり、観客も密にならない程度に充実しました。「響雅」のメンバーにとって、演奏中止や無観客でのオンライン配信演奏が続き、保護者の方たちにとっても物足りなかったと思います。

 生で聞く太鼓の音は迫力がありました。太鼓の音がホールの床や壁を震わせて、映像もぶれました。和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたようで、日本における太鼓の歴史は非常に長いと言われます。戦国時代の陣太鼓は有名ですし、江戸時代には祭礼の伴奏として使われただけでなく、太鼓好きが「のら打ち」をして楽しんでいたようです。

 1943年に小倉祇園太鼓が登場する映画『無法松の一生』がヒットして、その後何度もリメイクされました。私が見たのは、1958年版の三船敏郎主演の映画です。後半のクライマックスに打たれる祇園太鼓。特に「あばれ打ち」の場面は、今見ても、かっこいいなぁと思います。ただ映画の祇園太鼓は、映画用に創作された叩き方のようです。

 今は盆踊りの演奏にも使われますが、プロの和太鼓集団による舞台演奏の時代に入っています。日本初のプロ集団「王将太鼓」は1966年に大阪で結成されましたが、9カ月で解散。幻の太鼓チームと言われます。同時期(1968年)に東京で結成された「助六太鼓」は、後の和太鼓ブームの火付け役となった太鼓集団の一つです。2022年現在も活動しています。

 1969年には「鬼太鼓座(おんでこざ)」が、田耕(でんたがやす)によって佐渡で結成されます。鬼太鼓座はその後本拠を転々としながら、2022年現在も活動しています。田耕(本名・田尻耕三、浅草生まれ)は学生運動で大学を中退し、民俗学者宮本常一の影響で全国を放浪します。与那国島で太鼓に魅せられ、辿り着いた佐渡で“走楽論”(走ることと音楽は一体)を掲げて「鬼太鼓座」を結成。1975年のボストンマラソンに団員全員で参加して完走し、そのまま舞台に駆け上がり演奏するというパフォーマンスで話題に。翌1976年にはボストン交響楽団の指揮者だった小澤征爾との共演も果たしています。その後1981年には鬼太鼓座の座長田耕(でんたがやす)と意見が対立した団員たちが結成した「鼓童」が発足しました。両者は、ともに海外公演を定期的に行っています。

 さて、いつもの通り、シルバー・リハビリ体操と「パプリカ」・「うみ」を歌ってから、いよいよ響雅による演奏が始まりました。曲目は、龍雅・随想・CHACONNE・祭祀・祝祭です。龍雅・随想は小学生が中心になっていました。CHACONNEは高校生が演奏する曲ですが、当日他の生徒たちが部活等で参加できず、2人だったので指導者の方が一緒に演奏しました。さすがに指導者の方の演奏は上手でした。上の写真は、これから関東大会で演奏予定の祭祀です。前列向って右端が、太鼓歴15年の高校生。

 堀川保育園が、子どもたちのリズム感育成や拍手されて達成感を得る経験をさせるために、和太鼓を初めて30年以上になるそうです。それ以前はマーチングをやっていたとか。和太鼓の方が、発表の場が多く、かつ楽器による差がつかない良さがあるようです。また、打ち方のバリエーションもたくさんあることを、体験コーナーで私たちもちょっと経験しました。

 アンコールは全員参加での組太鼓演奏でした。これだけ揃うと迫力がありました。後ろ左端の赤いTシャツの方が指導者です。埼玉県から指導に来て下さっているそうです。子どもたちの熱意と技術を引き出していく指導者の力を、改めて感じました。保育園でまかれた種が育っていく。素晴らしいことです。そして、それを応援し続ける保育園の姿勢にも頭が下がります。大人の本気は子どもたちに伝わりますね。

 

 津軽三味線の演奏でも感じましたが、今回も子どもたちの持つ可能性を目の当たりにさせられました。私たちも刺激を受け、まだまだ老い込んでいる時ではないと、参加された方々も思われたのではないでしょうか。そして、日本の伝統芸能を創造的に継承していく和太鼓にちょっと誇らしさを感じます。それを子どもの時から経験しているのは、これからどういう道に進んでいくにしろ、大きな財産だと思います。

 

 響雅の皆さん、関東大会頑張ってくださいね。会場を快く貸して下さり、会場設営も手伝って下さった堀川保育園の皆さんには、心からお礼を申し上げます。そして、暑い中、「はまぎくカフェ」に参加して下さった皆さん、本当にありがとうございました。