第18回 那珂湊の歴史

 体操と歌で始まった第18回はまぎくカフェ。今回は会場が変わったことと、プロジェクターを2台使う試みをしたことで、設定に少々手間取りました。でも参加者の皆さんの「大変よね」のお言葉、ありがとうございます。

 時間が足りなくて、右の会場に飾られた絵に関する説明が出来ませんでした。後から出てくる湊村の天保の検地図の一部模写で、帆船から荷物を岸まで運ぶ小舟が明確になっている絵です。

 体操はシルバー・リハビリ体操でしたが、初めての方もいらしたので、動きが分かるか心配でした。帰りがけに「体操良かったですよ」と言っていただき、安心しました。

 歌は「荒城の月」、「赤とんぼ」、「パプリカ」です。「赤とんぼ」の詩の一番に「負われて見たのは」とありますが、私もつい最近まで「追われて」の意味で取っていました。でも、姐やに背負われて見た赤とんぼを思い出している部分です。三木露風の両親は、彼が5歳の時に離婚して、母親とは生き別れになっています。その露風を世話してくれた姐やは、やがてお嫁に行ってしまい、連絡も取れなくなった。真っ赤な夕焼けと赤とんぼの配色(夏の赤でなく)、露風の姐やへの思い(母への思い)が伝わってくる抒情歌の代表曲の一つです。

 

 石井代表から講話者磯﨑滿さんの紹介があって、講話が始まりました。磯﨑さんは、「那珂湊野外劇」の仕掛人でもあります。第1回目は『湊村反射炉物語ー幕末を駆け抜けたある大工の愛の記録ー』(2018年)、第2回目『海鳴の宝船歌』(2022年8月10日・11日)。第2回目は2020年開催予定でしたが、コロナ禍で中止に。「楽しみにしている」という市民の声に押されて、今年8月に開催されました。斬新な野外劇でしたが、生まれ育ったまちを元気にしたいという磯﨑さんの挑戦はまだまだ続きそうです。

 

 さて、那珂湊の江戸期と言えば、やはり湊御殿(夤賓閣)を抜かすことは出来ません。二代藩主光圀の最晩年に、日和山(湊公園)に建てられた別荘ですが、もてなしの館でもあり、海防の拠点としても使われていました。

 

 夤賓閣は、1698年に二代藩主徳川光圀(黄門様)の別邸として建てられました。湊別館、お浜御殿などとも呼ばれた約300坪の屋敷で、別荘であり、おもてなしの館としても使われていたようです。現在石碑が残っている高台より下の部分、相撲場になっているところに建てられていました。

 湊公園を下ると天満宮がありますが、ここの御祭禮(明治以降「湊八朔祭り」と改称)は、光圀によって期日ややり方などが整えられたと伝えられています。最終日に神輿が海に入る「お浜入り」が特徴ですが、近年神輿の担ぎ手が和田町だけではまかなえないようです。

 

 光圀と言えば『大日本史』(1657-1906)の編纂で有名です。『大日本史』は、神武天皇から後小松天皇までを扱い、南朝を正統と論じています。これは、南朝が三種の神器を持っていたこと、日本に亡命した明の儒学者朱舜水からの影響が大きいようです。この『大日本史』編纂から水戸学が始まっています。水戸学は尊王敬幕思想を掲げ、これが幕末には尊王攘夷思想に転換していきました。

 水戸学というと何となくイデオロギーに憑かれた、古くさいものというイメージがあります。しかし、磯﨑さんは、水戸学の研究者でもあった水戸中学校長・菊池健二郎氏の『国民道徳と個人道徳』講演とその後の同盟休校(大正10年)の話に触れながら、考え方はかなり合理的と話されていました。

 朱子学は「理気二元論」を基本とする理念に走る知的で秩序を重視する学問、陽明学は自分の心を重視する学問で、幕藩体制に逆らう人たちに支持されました。水戸学に影響を与えた朱舜水は、朱子学と陽明学の中間、実利・実行・実用・実効を重んじたと言われます。う~ん、それがなぜに天狗党の乱に走るのか。天狗党の乱は、藩主流派の諸生党と天狗党とがぶつかった、藩を二分した闘いでした。天狗党は下級武士階級や豪農・豪商の出身者が主流だったようで、もちろん一般の庶民は生活に追われていてそれどころではない、という説明もされました。水戸では、いまだにこの話はタブーだとか。内紛は尾を引きます。

 

 これは、天保の検地図の写しとその下に那珂川の河口の部分を継ぎ足したものです。湊御殿の部分は白抜きになっていますが、海防の拠点でもあったため、描かれていないとのことです。東廻り航路を帆船で米や海鮮を運んできて、小舟で荷揚げした様子が描かれています。模写したカフェの絵は、荷揚げした小舟がよく分かるように描かれていました。

 この東廻り航路を整備したのは仙台藩です。水戸藩は現在の茨城県全域に亘るわけではなく、ほぼ大洗から以北の地域でした。現在の茨城県域には、14の藩と天領、旗本領、領外諸大名の飛び地が入り乱れていました。東廻り航路を整備したのが、仙台藩というのも納得しました。仙台藩は龍ヶ崎周辺に飛び地を持っていて、涸沼湖畔の網掛に集積所を確保していました。東廻り航路は、最初はその出発港が荒浜(宮城)でした。仙台藩は、寛永年間(1624-1644)には北茨城の平潟魚港の整備を行って廻船の寄港地とし、仙台陣屋も設置していたようです。東廻り航路は、最初のうちは那珂湊か銚子で川を使っての輸送に切り替えていました。これは海の難所である犬吠埼沖の航行を避けるためでした。犬吠埼沖は現在でも海の難所と言われます。

 

 1853年にペリーが浦賀沖に来航し、幕府と日米和親条約を結びました。もともと海防意識の強かった斉昭は、幕府から一万両を借りて、鉄製大砲を作るために反射炉を製造しました。反射炉というのは、金属融解炉の一種です。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬(不純物の多い金属から純度の高い金属を取り出すこと)に使われていました。燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射させるので反射炉と言います。鋳物鉄から不純物を取り除いて、強度の高い粘り気のある鋼に変え、大砲を作ったようです。

 1855年に第1炉、1857年に第2炉が完成。20門の大砲を作りました。しかし借金してせっかく作ったのに、大して使われないうちに、1864年の天狗党の乱(元治甲子の乱)で夤賓閣ともども焼失しました。反射炉は1937年に復元模型が建設されました。1970年にはここで作られた大砲の模型も設置されました。

 この反射炉建設に賭けた大工飛田与七さんの物語りが野外劇『湊村反射炉物語り』(2018年)のテーマでした。1940年に茨城県立湊商業学校(現・茨城県立那珂湊高等学校)の英語教師だった関一さんが書いたシナリオ『水戸反射炉の最後』が元になって、脚本化されています。このシナリオは映画化直前まで行っていたようです。

 

 休憩の後、磯﨑さんからこれからの那珂湊についての提言があり、講話が終わりました。磯﨑さんのかつての教え子さんもいらしていて、他の参加者さんも熱心に話を聞いていました。終わってからの質問もたくさん出て、帰りがけに参加者の方から「ドキドキするくらい面白かった」との評価をいただきました。

 

 磯﨑さん、ありがとうございました。しおかぜみなとのスタッフの方には、色々便宜を図って頂き、心からお礼申し上げます。そして今回も、参加して下さった皆さんの熱意に感謝です。

 磯﨑さんの話に触発され、所々勝手に補わせて頂いています。間違いがあったらすみません。


・休憩時間に出されたサツマイモのジェラート、美味しかったですね。コロナ以来、初めての会食(黙食)で、日常が、戻りつつあるのを感じました。このジェラートは、市内の高校生が、町おこし支援事業として作ったものだそうです。

・講演会でドタバタした動画と、模型を作ったニュースをアップしていますので、こちらもご覧ください。