今回もシルバー・リハビリ体操の後に、『パプリカ』と『大きな古時計』(6月10日は時の記念日)を歌って、始まりました。
最初に講話者磯﨑滿さんの紹介がありましたが、参加者の皆さんのほとんどがよくご存じの方です。茨城高校で倫理社会を教えられていましたが、退職後は地域活性化に活動的に関わられています。『湊村反射炉物語り』(2018年)・『海鳴の宝船歌』(2023年)は、磯﨑さんが中心になって創り上げた市民参加型の野外劇です。
YouTubeにアップされている『野外劇 湊村反射炉物語り』を見ながら、湊の歴史自体は劇を作るための素材だと感じました。野外劇自体が目的であり、そこに参加した人たちの作り出す祝祭的空間が目的だったのだと。
カフェでのお話も、漁業の歴史の語りの中から、そこで生きてきた人たちへの畏敬の思いが伝わってきました。
那珂川に鮭が上らなくなっている、那珂湊港では鯖の養殖を始めているというようなお話から始まりました。鮑は古代から岩礁地域では採れていて、現在、鮑の養殖は磯﨑漁協を潤しています。湊の漁業は養殖の時代に入っている、というのが磯﨑さんの見解です。
写真は、江戸時代初期に徳川光圀が建造させた巨大船「快風丸」(500トン以上)です。この船で、光圀は蝦夷地探検をしました。光圀の蝦夷地への関心は、海防意識からではなく、探求心・好奇心・学問的意識だったそうです。
7千両(数億円)を掛けて那珂湊で建造し、石狩川を遡って、アイヌの人たちと交流・交易をして、1688年に那珂湊へ帰港しています。ちょっと唖然とする規模です。でも、鎖国するまで、日本が外の世界と繋がるためには海を渡るしかなかったわけです。倭寇や南蛮貿易の話を考えると、海を渡っての行き来は当たり前に行われていたと言えます。徳川家康も海外交易に積極的だったと言われます。家康の孫である光圀が、海を超えようとするのも「さもありなん」です。
江戸時代、水戸藩は漁業育成には積極的ではなかったようです。水戸藩自体が、伊達藩に睨みを利かすために人工的に作られた藩です。江戸時代は農業が基本で、漁業は農業に含まれて捨て置かれた。助けてもらえなかったけれどもそれだけ自由度が高かった分野でもあったわけです。その上、水戸藩は土着の行政単位ではなかったことからも、漁業に対する姿勢が保守的だったことはよく理解できます。
しかし黒潮の流れに乗って、漁法は紀州からやってきました。鰹節の作り方も紀州から土佐を回って伝わってきました。漁業では、紀州に大変にお世話になっていることがよく分かります。江戸時代の近辺の漁業は、鰮(いわし)漁が基幹だったそうです。
秋刀魚は回遊魚で、捕れる時期が限られていて、基幹漁にはならないという話もありました。昭和30年代の秋刀魚でにぎわった時期は、むしろ奇跡であったということです。
秋刀魚流し網漁業は、茨城では本格的に明治39年に、平磯町の磯崎与茂七さんが始めました。伊豆方面で、夜間流網を用いて秋刀魚を漁獲することを聞いて、始めたようです。漁夫は流網漁法に熟練していましたから、平磯町に急速に普及したそうです。しかし、秋刀魚が常磐海区へ回遊する時期 は、10月から12月上旬の 短期間なので、基幹業種とはなりませんでした。
その他、磯﨑さんの資料から分かったことで面白かったことを、幾つか挙げます。
①まず、江戸時代に紀州から黒潮に乗って伝わったものは次のようなものです。
1地曳網漁業 2かつお釣り漁業 3大揚操漁業と小舌網漁業 4まかせ網漁業 5八坂網漁業
6八田網漁業 7かびつけ節製法
②鰹節の製法は、次のようにして伝わりました。
元和3(1617)年、紀伊国の船頭甚太郎が土佐に漂流し、その同名の子が鰹釣漁法と鰹節(カビ付け
節)製法を土佐に伝えた。
→文化10年頃(1813年頃)「与一」(土佐生まれの漂泊の技術者)が、伊豆や房州千倉に土佐節の製法
を伝える。
茨城にも房州を経て伝わったものと言える。
享保中期(1720年代)から約80年間、鰮の不漁期に鰹、鮪、鯖等の釣漁業を指向するようになり、
輸送の関係で鰹節、鮪節、鯖節が発達し、江戸を中心に関東全域に出荷した。
③明治期に平磯村の磯崎与茂七さんによって製造法が改良されました(与茂七さんは江戸末期に生まれ、明治時代に、鮪流網漁業で大成功を収めた人です)。
(春節) 薩摩節、土佐節、焼津節、伊豆節 鰹の脂肪分が3%未満と低い。
(秋節)<油節> 千葉、茨城、三陸 評価が低い
那珂湊の漁業の開拓者、大川健介さんの話も出ました。明治24年、湊町漁業組合初代組合長になった方です。大川家は菓子製造業を営んでいました。健介さんは鉾田村出身で、湊村大川藤重の養子に入って、明治15年に漁業に進出しました。
健介さんは八坂網漁法を改良してカタクチイワシの漁獲に成功しました。漁業組合の創設に関わり、初代組長を務め、迷信を打破。難破船遺族の救護に尽力し、那珂川河口の改修と牛久保港の建設にも取り組みました(明治30年代~40年代)。顕彰碑が湊公園入口に立つのも、納得です。
漁法の図解もたくさん見せていただきました。「改良揚操網( 2艘まき)操業模式図」は面白いなぁと思いました。盛りだくさんの1時間のお話でした
ついでながら、美乃浜学園の名前の由来が万葉集だという話も出ました。優雅ですね。
「磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ」
(いはきやま ただこえきませ いそざきの こぬみのはまに われたちまたむ)
(『万葉集 巻12 (歌番号)3195』)
海への尽きせぬ想いを語られた磯﨑滿さんに、参加者の皆さんからも共感を込めた大きな拍手が送られました。磯﨑さん、ありがとうございました。場を共有して下さった皆さんにも感謝です。