体操と歌を歌ってから、稲田健一さんのお話になりました。歌は『もみじ』と『小さい秋見つけた』でした。『もみじ』は下のパートをスタッフの一人が歌ってくれて、「きれいに」はもりました。私たちは低音部に引きずられないように頑張って歌いました。
左(あるいは上)の作品は、ひたちなか市と虎塚古墳の文様です。制作者が、創りながら面白いことに気づきました。ひたちなか市の地図は左上を下げて左側面が水平になると、「猫」に似ている、と言うのです。確かにそうですね。地図として見ている時には気がつきませんが、形を作って動かしたりすると、納得です。
さて、講師の稲田健一さんは小学校5年生の時に、一般公開された(1980年)虎塚古墳の鮮やかな赤色の文様と衝撃的出会いをしました。その謎を解きたいという思いが、稲田さんの研究人生の原動力でした。古代の遺跡は今を忘れさせてくれる不思議な魅力を持ちます。その時代へワープさせる力といったらいいでしょうか。
ひたちなか市には現在326遺跡が見つかっています。茨城県の古墳は約1万基以上です。古墳には4つの基本形があり、古墳が一番多い県は兵庫県のようで1万8千基を超えます。ところが、前方後円墳の数では茨城県は全国2位で、445基見つかっています。1位は千葉県の677基。これは何を意味するのでしょう。
稲田さんのお話では、虎塚古墳の彩色や線描画は、九州の熊本県の装飾古墳の様式と同じ系譜だそうです。古墳文化の中心地近畿には装飾古墳は少なく、高松塚古墳やキトラ古墳など、近畿の古墳は壁画古墳と言われます。壁画古墳は近畿にしかないそうで、唐や高句麗の影響が言われます。キトラ古墳に関しては、遣唐使の帰国(704年)以前の7世紀末から8世紀初めに作られていて、高松塚古墳ほど大陸からの影響は強くないとみられています。
装飾古墳は北九州に多く、特に熊本県には205基あります。鳥取県や島根県にも分布が見られ、もう一つの中心地が千葉・茨城・福島・宮城です。なぜ九州の装飾古墳がひたちなか市で発見されたのか。
虎塚古墳の様式は、熊本県のチブサン古墳や大坊古墳の装飾画(どちらも6世紀中頃)とよく似ています。稲田さんの話では、線で周りを描いて中を塗る技法は熊本の装飾古墳の特徴だそうです。
また、虎塚古墳の副葬品の少なさと、玄室の外で発見された多くの副葬品から、搔き出しという行為が最初の埋葬から20年から30年後に行われ、もう一回埋葬が行われたと推測されるそうです。血縁者の行為とは思われず、古墳が乗っ取られたのではとのこと。面白いですね。
稲田さんは、虎塚古墳の装飾画から、磐井の反乱(527年)で大和朝廷に臣従した九州勢力が、水軍を使って常陸に本拠をおいて東北に進出したのではないかと見立てているようです。前方後円墳などの表向きの形から、大和朝廷に臣従しつつ、装飾古墳の紋様に自分たちの文化を刻んだとの見方。ドラマを見ている感じがして、なんかワクワクします。
十五郎穴の話に移る前に小休憩を取りましたが、その時見せてくれた武人埴輪です。田彦古墳群から出土した本物です。頭には冑を被り、顔や体に青色の顔料が見られます。しっかり梱包して、稲田さんが大切に抱えて持って来てくれました。参加者の皆さんも興味津々で、次々と近くに寄って観察していました。もちろんスタッフも。
小休憩の後は、十五郎穴の話に移りました。ひたちなか市中根にある十五郎穴横穴墓群が、今年の2月21日の官報告示で国指定史跡になりました。
この墓群は大きく三つに分かれています。指渋(さしぶ)支群(122基)、館出(たてだし)支群(97基)、笠谷(かさや)支群(55基)があって、総数274基(推定500基以上)を十五郎穴横穴墓群と呼びます。
指渋支群は虎塚古墳がある場所の南側斜面にあります。館出支群は虎塚古墳群2号墳がある地域にあり、笠谷支群は笠谷古墳群地区にあります。那珂川支流の本郷川と大川に挟まれた舌状台地にあり、それぞれ谷によって分かれています。
右(上)の写真は2022年4月30日に撮影した館出支群ものです。まだ、茨城県指定史跡でした。
館出支群からは、蕨手刀が出土。豪華なもので、正倉院宝物以外では、全国で唯一の出土だそうです。館出支群Ⅰ35号墓から出土しました。この墓は須恵器の時期から、8世紀第4四半期から、9世紀第2四半期のものと言われています。
三つの支群の調査では様々な形の玄室(死者を埋葬する墓室)が確認され、その形態や出土品から7世紀前半〜9世紀前半までずっと造営・利用されていたことがわかりました。
最初に作られた時の形態を持つ横穴墓は三つの支群それぞれに見られ、どこか一か所から造営が始まって次々に広がって行ったということではなさそうです。それぞれ自分たちの玄室の造り方を持つ集団が、各々の場所で造営を始めたようです。
かつては、横穴墓は古墳より身分の低い人の墓と言われていました。私たちもそう教えられた気がします。でも現在では横穴墓は、十五郎穴もそうですが、必ずしも古墳より身分の低い人の墓とは見做されないようです。
地域によっては、古墳の埋葬施設より規模が大きく、太刀など豪華な副葬品を有する横穴墓があります。集団がどちらの墓制を採用したかだと考えられるようになっています。
ひたちなか市は主要河川によって海と内陸を繋ぐ要所でした。『続日本紀』には、那賀郡が中央の蝦夷対策に大きな貢献をしたことが記されているそうです。出土品からも、奈良時代以降も海上交通の重要性が衰えなかったことが分かります。江戸時代の水運の話の時にも、那珂湊から那珂川・涸沼川を遡って陸路で霞ケ浦に入り、潮来を経て利根川経由で江戸に入る那珂湊内海江戸入りコースで那珂湊が栄えたということでした。ただこのコースは、安全性は高かったのですが、積み替えが何度もあって手間が掛かり衰えて行ったようです。
私たちの住んで居るこの地域は、海と内陸を結ぶ要所に当たります。もともとこの地域には、航海・漕艇・運輸・造船を生業とする集団(海洋民)が存在したのではないか。そして装飾古墳という、近畿にはほとんど分布しない遺物の存在が意味することは何か。稲田さんは『古代日本史論』の大和岩雄氏説から次のように考察しています。
「優れた航海術を持つ北九州の集団が常陸に送られ、常陸の海洋民は、その集団と融合することで、新たな航海術を手に入れたのではないだろうか」と。
私たちは、虎塚古墳は大和朝廷によって序列化された豪族の存在を意味すると教えられてきました。しかし、稲田さんによれば、虎塚古墳の装飾古墳という在り様から見えてくるものは、一見臣従しているように見えながら、その実大和政権主導ではない地域を主体とするより複雑な地域間交流が展開していたということです。そして、その交流の一つとして常陸と九州のつながりがあります。
湊が海に開かれている、というのはそういうことかと思いました。古からの歴史の繋がりを感じた時間でした。